シエナについて
シエナはトスカーナ州中部に位置する人口約6万人ほどの街。フィレンツェから南へ約60kmの場所にあります。3つの丘の上にまたがるように位置するこの街はその昔、ヨーロッパの金融業の中心地として栄えました。街は8個の大きな門をもったレンガ造りの城壁に囲まれています。石畳が続く中世時代の趣きをそのままに残す歴史地区は1995年ユネスコより世界遺産として登録されました。
この街を歩いてみるとあちらこちらにメス狼のお腹の下でお乳をのんでいる双子の男の子の姿を目にします。これはローマの街を築いたといわれているロムスとレムスなのですが・・いったい何故シエナの街に? 実はとても深い関わりがあるのです。
伝説によれば、ローマの王座を競い合い結局レムスはロムスに殺されてしまったという話は有名です。そしてこのレムスにも双子の子ども(セニオ・アスキオ)がいたのですが、伯父のロムスはこの子ども達の命をも狙っていたのです。それを知った子どもたちはアポロ神殿にあったローマのシンボル=メス狼と双子の像を盗み、白と黒の馬に乗りローマの街から逃れます。そしてたどり着いた街がシエナだったと語り継がれているのです。
シエナ市のBALZANA(バルツァーナ)とよばれる白と黒の紋章カラーもこの伝説に由来していると言われています。そしてシエナという街の名はこの双子のうちの一人の名(セニオ)をとったものであると伝えられています。
シエナを歩こう
シエナはすべて徒歩で観光できるコンパクトな街です。メインストリートから一本外れて中へ入ると、とても静かでシエナ人の生活の音が聞こえてきます。
シエナへのアクセスはフィレンツェからが便利です。公共交通機関を使っての移動をご希望の場合は、長距離バスが大変便利、電車も可能ですが本数が少ないのが難点です。ハイヤーの手配も承っております。ご希望の方はKURASUTABIまでお問合せくださいませ。
カンポ広場 Piazza del Campo
緩やかな傾斜をもつ貝殻の形をした街の中心にある大きな広場。完成は1349年。一面レンガが敷き詰められ、それはまるで魚の骨の様。トラベルティーノとよばれるこの地方で採石される白い石 によって放射状に九つのパーツに分けられています。これは13世紀後半、この街が栄えていた時代に9人の執政官によって政治がとられていたことからその象徴をあらわすも のであったと伝えられています。この広場で毎年7月と8月に行われる馬の地区対抗戦=パリオ=の存在は世界的にも大変有名。毎年多くの観光客が訪れ、この広場はたくさ んの人々で埋めつくされ熱気と歓声につつまれます。
プブリコ宮殿 Palazzo Pubblico
ゴシックスタイルのプブリコ宮は半分が市庁舎となっています。その歴史は大変古く建設が開始されたのは1280年代初頭、1287年には9人の執政官たち、そして彼らを監視する行政長官(ポデスタ)がこの宮殿に入り活躍してしていました。ノーヴェとよばれていたこの9人の政治家たちは、それまでにシエナの街を統率していた貴族または教会聖職者ではなく、市民によって選出された人物たちです。当時から平等性を尊重してきたシエナ市民、最高レベルの自治都市国家であったと伝えられています。この街で暮らす人々にとってこの栄光は今も大きな誇りのひとつなのです。
マンジャの塔 Torre di Mangia
中世の時代、街の権力や強さの象徴は塔を高く建てることで表現されていました。シエナを代表する '' マンジャの塔 '' は102m その当時のイタリアでは一番の高さを誇っていました。建築期間は1325~1348年、3人の技術者の手によって完成しています。塔の上部、トラベルティーノとよばれる白い大理石でできた部分は当時の新ドゥオーモの建設に関わっていたAgostino Giovanni(アゴスティーノ・ディ・ジョバンニ)がLippo Memmi (リッポ・メンミ = シモーネ・マルティーニの義弟)デザインのもとに建築をしています。塔の4つの側面は完璧な東西南北を示しており技術の高さを物語っています。また最終1666年に取り替えられた鐘は重さ 6760 kg 、サンタ・マリア・アッスンタに捧げられていることからシエナ市民によって'' SUNTO (スント)'' とよばれています。1379年までマンジャ・グアダーニャという塔の守衛(鐘突き男)によって手動で鳴らされていました。彼の石像は現在もプブリコ宮の中庭入り口に見ることができます。彼は大変な食いしん坊で稼いだお金を全て食べ物に使っていたというお話が残っており、塔の名前の由来ともなっています。
大聖堂 Duomo di Siena
トスカーナの覇権を巡り隣国フィレンツェとの間に繰り返された激しい抗争の最中に、市民の団結により建てられたシエナの大聖堂。シエナの街の最も高い丘の上に12世紀中頃から約200年かけて建設されました。ファザードには無数の動物と賢人たちの彫刻、三色の大理石(ピンク・白・緑)が使用され調和と気品を備えた大変豪華なロマネスク・ゴシック建築様式となっています。聖堂内部は3廊式。それを仕切るように黒と白の縞模様の束ね柱が並んでいます。見どころは何といっても素晴らしい床面で56の四角形に区切られた象嵌細工で約200年かけて施されました。すべてが聖書の物語で構成されており1枚だけが新約聖書からとられたものでテーマは『幼児虐殺』、Mateo di Giovanniの作品です。13世紀中頃につくられた見事な8角形の説教壇はNicola Pisanoとその弟子たちによって手掛けられたもので、キリストの生涯を描いた7枚のレリーフとなっています。人物の表情が大変細かく躍動感に満ちた彫刻は必見!
洗礼堂 Battistero di San Giovanni
シエナの洗礼堂はドゥオーモ後陣の真下に付属する形で14世紀初頭に建設がはじまりました。しかしペストなどの影響を受けファザードは未完成のままに終わっています。サーモンピンク色の大理石をたくさん使用してつくられたアーチがとても美しく、またドゥオーモの床装飾にみられる象嵌細工の技術が洗礼堂正面入り口にも施されています。内部にはルネッサンス時代にお隣の街 フィレンツェでも大活躍していた彫刻家、ドナテッロ・L・ギベルティ・ヤコボ デッラ クエルチャ・ベッキエッタなどの作品を鑑賞することができます。見どころはなんといっても洗礼盤とそれを囲むように枢要徳を表す美しい彫刻や6枚の見事なブロンズの浮き彫りです。洗礼者ヨハネにまつわるストーリー「神殿を追われるザッカリア 」や 「ヘロデの饗宴」などが見学できます。フィレンツェの洗礼堂にある東の扉(ミケランジェロが天国の扉という名で呼んでいたことは有名)を L・ギベルティが手掛けたことはあまりにも有名な話ですが、その権利を獲得するコンクールにはシエナ出身の彫刻家、ヤコボ・デッラ・クエルチャも参加していました。
サンタマリアデッラスカラ救済院 Spedale Santa Maria della Scala
一説によると紀元後7世紀にはすでにこの場所に救済院があったとされている世界最古のサンタ・マリア・デッラ・スカラ病院。ローマからフランス方面へ抜ける街道 via Francigena がシエナの街中を通っていたため巡礼者を看護する施設として、また貧しい家庭に生まれた子供たちを養護する教育機関(捨て子養育院)としても機能していました。巡礼の間 Sala Pellegrinaioに描かれている1400年代のフレスコ画は必見です。当時の病院の中の様子、例えば手術をしている外科医の様子、検尿をしている様子、女性が赤ちゃんにお乳を与えている様子、養育院内で育った子供同士が恋に落ち結婚の儀式がとり行われている様子、また病院内の窓から見える大聖堂のファザードなどが大きな部屋の壁全体に描かれています。院内に付属するサンティッシマ・アヌンツィアータ教会も大変美しく主祭壇画は必見です!
サンドメニコ教会 San Domenico
ドメニコ会創設者であるサン・ドメニコ・グーズマンを敬う修道士さんたちが暮らしている1200年代 レンガ造りのバジリカ様式をもつ教会であり、聖女カテリーナの頭蓋骨が祀られていることで大変有名です。聖カテリーナ礼拝堂は豪華絢爛で大変美しい黄色の大理石がふんだんに使用されています。また壁には1500年代にシエナで活躍した画家のソドマやフランチェスコ・バンニらが 描いた聖女カテリーナがおこした奇跡のエピソードを鑑賞することができます。また教会内部 左翼廊にある小礼拝堂にはグイード・ダ・シエナ作 「マエスタ・玉座にすわるマリア」があり、ビザンチンの雰囲気が色濃くのこる作品です。この作品は現在ウッフィツィ美術館に貯蔵されている3枚のマエスタ(チマブエ・ジョット・ドゥッチョ)よりもさらに時代の古いものでシエナ派とよばれる絵画スクールの創設者の一人といわれている人物による作品です。
サンフランチェスコ教会 San Francesco
プロベンツァ―ノ教会 Provenzano
マリア ディ セルビ教会 Maria dei Servi
カルミネ教会 Carmine